秋待ちトラディショナル

人生で、一度も訪れることがないであろう場所に思いを馳せながら、久しぶりの煙草に火をつける。
そこは、人工的な青と、自然が調和した世界。
悲しみも、後悔も、死でさえも踏み入ることができない空間。
その光景は、あなたが眼を瞬かせると同時に現われ、あなたの体を覆いつくす。
それ以上のことは誰も覚えていない。
しかし、そこから帰ってきた者は皆口を揃えてこう呟くのである。

十三年前の秋、喫煙所で物思いに耽っていた私に英国紳士風の男が語って聞かせた話だ。
一人の時間を奪われて、愛想笑いを浮かべるしかなかった私だが、彼が「あなた」と口にするたびに、歪な親指とひしゃげた人差し指で挟んだ煙草の先をぐいと突き出してきたのを、まるでよく冷やされた鉄の棒のように感じたことは今でも忘れられない。
私はあれ以来、その指と鉄の棒をモチーフにした像をいくつか作った。
中でも、「開錠」と夫が勝手に名づけた作品は私の個展のでも好評を博し、一時期は作者である私を置いて、様々な場所へと出稼ぎに行っていたほどだ。
喫煙所での一幕は、私にとって新しいアイデアが生まれた程度のことでしかなく、あまり思い入れを込めて彫像に取り掛かった訳ではないのだが、どうやら件の作品は行く先々で「いわくつき」となっているらしい。

知り合いのツテで飛び込んだ、広島で行われた小さな展示がその始まりであった。
あの「開錠」を甚く気に入った彼は、その彫刻を特等席に設置したらしい。
我が子の雄姿を初めて見たのは、事件後に撮られた一枚の写真からであった。
自分の作品について多くは語りたくはないが、出来るだけ飾らずに述べると、ドアを開けようとする鍵とそれを持つ手首と言ったところか。
その鍵が向けられた先には古びた民家の絵が、正確に言えば、その民家の鍵穴部分が相対するようなレイアウトを凝らしてくれたらしい。頼んでもいないが。
しかし、写真にはその鍵穴も扉も写っていなかった。その部分が切り取られていたのだ。
それが悪質な悪戯であることは明白で、誰かが私の彫刻家人生を滅茶苦茶にしようと仕組んだのではないか、とまで考えを巡らせていたが、破られた絵は「開錠」をそこに配置した張本人の物で、「俺の心のみならず、俺の絵まで開きやがった!」と浮かれた挙句に、私の彫刻をその方向で喧伝する始末だったので、彫刻家人生は図らずも延命を遂げたのであった。

つづく

かりわたし

秋雨に合わせてさめざめとしてみたが飽いた。
秋色に合わせたスカートを大事に仕舞ううちに紅葉も落ちた。
得る以上に失うことの早さを辟易もせず、穏やかな目で見えているものはそう多くはない。
頭に響くのは、夏の去る音でもなく、冬ざれの乾いた風でもなく、
何かを隠すのにちょうど良い落ち葉が集まっていく音。
見つかる前に焚き火にしてしまおうとマッチを擦る手さえままならぬ。

愛よろしく

おかしなことを言う。
本来直視できなかったものが実に軽率になっていく。
肌に吸収される潤いの瑞々しさとは程遠い浸透を見せる。
履き違えるし、為違える。
過ぎ去るものだろうと考えることさえなく私が眠る夜に、清々しい決意がなされていたのかもしれない。
喜びの約束されない朝日の中で私がカーテンを開ける頃に、もうそれは絶えてしまっていたのかもしれない。
理解のない納得が訪れるのが先か、納得に至らない理解で忘憂が訪れるのが先か。
ややこしくする必要はなく、騒ぎ立てる粗野もせず、
ただ今は一元論が悲しみに似た羨望のもとに存在しているかのように感じてしまうのは、
如実が倒影してしまいそうな愁嘆が自身のためなのではという恐怖があるから。
事実はそれでも遠くて、未だ頭の中で響くだけだ。

the 21st night of September

この9月には、小さな二つの別れと、ひとつの大きな別れがありました。
しかし、私はそれを何かに記すことが出来ませんでした。
それほどまでに、私の筆は錆びついていたのです。
だから今日、新しいペンを買いました。
ペンだけではありません。ノートと、地図もあります。
これからゆっくりと錆を落としていくつもりですが、その剥がれ落ちた箇所には、正しい文法と誤った表現がいくつも収められていることでしょう。
私は私の気まぐれでもって、彼らを愛し、憎むことにしました。
そうして書き記していったことのすべてを、私は忘れてしまうはずだから。

マッチは早く燃える

──秋口。

夜の森を走っている。

その闇の深さたるや、想像していたよりも遥かに深い。

息を切らしている。

勝手知ったる庭のように駆けることが出来るのは、そこが一本道だからである。

涙を浮かべている。

ここを抜けた先については何も知らされていないし、あとどれくらいで抜けるのか、皆目検討がつかない。

恐怖に覆われている。

確かな一瞬を見逃した後、四方を業火が襲った。

救いを求めている。

煙らない炎は、私を焼き尽くすこともなかった。

手放している。

夏座敷

畏れ多くも自ら求めたものが例えば甲斐甲斐しさだとしたら
恐らく君が知らずに望んだものは雄々しさだろう
しかしそうなればなるほどに
見えざる君の更に望ましくないさまは
私をまたひとつ嫌な大人へと段階させるので
求めるものはなきしにもあらず
ただただ見に纏うものに何も付着させずに臨む力
その相手はもはや私ではなく
きたる未来の存在のため
きみのため
そうして愛したすべての私のため

新しい晩夏

未来に生きる自分を思い描いてみると、それはいつも秋か冬で、曇りか雨だった。
どうやら今の季節は、僕からとても遠いところにあるらしい。
一方で、過去を振り返ってみると、当然のことながら、すべての季節においてその情景や空気の匂いが思い出される。

単なる想像力の欠如。そうかもしれない。
更なる記憶力の欠如。そうかもしれない。

しかし、過ぎた季節はどれも美しく、
この瞬間までもが記憶に組み込まれるとしたら、その遠い季節は、いつから僕に寄り添ってくれるのだろうか。

妙なる経験の欠乏。そんなことはない。