1と2(前)

ひどい雨が止んだのは、あれから数時間後のことだった。

この国で嘘みたいなニュースを信じきっていたのは、分別のつかない子どもと、何でも知っている狡い大人、そしてそれを待ち望んでいた彼女だけだった。彼女は終末論者でもなければ、心をバランスを崩していた訳じゃない。
彼女はそれを最後まで楽しみきった。今となってはそう言えるだろう。

彼女はそれを誰よりも早く知っていたように思う。世間で1999だとか2000だとか騒がれている間も冷静だった。「本当の」日付を知っていたからだ。そして小学生のころ、僕は彼女に計画を打ち明けられた。それは僕にとって、疑いようのない秘密として心の奥底に残り、昨日の晩、真実になった。

夕方、仕事を終えた彼女から電話がかかってきた。「タダ飯を食わせてやるから車を出せ」と、至って普通の調子だった。(彼女はいつもこんな調子だ。)一体どんな企てがあるのか、考えるだけ無駄だということを何度も肌で思い知らされている僕は、言われるがままに職場まで車を走らせた。道は空いてるでも混んでるでもなく、予想していた時間通りに到着した。

「遅い」
はいはい。といつものやり取りを交わしたつつ、彼女は車に乗り混んだ。Uターンしてビルの前を通り過ぎるときに、車を見送ろうとしていた同量らしき人たちに会釈したが、彼らは一様に怪訝な顔を浮かべ、僕の隣の席ばかり見ていた。
「何かしたの?」
僕の問いかけをまるっきり無視して、うーん、とか、あー、とか言いながら狭い空間で身を捩らせ、コートのポケットをごそごそ漁っている。答えなどしていなかったため、ハンドルに意識を集中させようとした僕の胸に、突然封筒が突きつけられた。危うくアクセルを踏み込みそうになり、体制を整える。
「何それ」
「見れば分かるよ」
「運転中だから」
何となく不機嫌を感じて、隣にちらっと目をやると、茶封筒にボールペンで雑な字が書かれていた。
「退職金!?」
そっ。彼女は誇らしげに胸を張る。
「今日で辞めたの。部長が『いきなりそんな事を言われても』なんておどおどしてるもんだから、机にあったこいつを貰ってきた」
「いくら最後だからってそんな無茶な……」
「いいの!今日の今日までしっかりやってきて、気づかれることなく完璧な引き継ぎまで用意してきたんだから。これっぽっちじゃ全っ然足りないし、会社にしたら逆に儲けてるくらいで」
豪快に言い放とうとしつつ、尻窄みに声が小さくなる。
「あとでこっちに迷惑かかったりしないだろうな?」
「知った事じゃありませんー」
威勢を取り戻そうと悪態を吐くものの、うつむき加減のままだ。
「別に、最後くらい……」
真面目と臆病が手を握り合って震えているような性格だ。職場でも決断力が一番に評価される彼女が大見得を切ったときはたいそう様になっていたであろうが、その立ち振る舞いとは裏腹に、後々のことや、同僚への配慮にばかり頭が回ってしまうのだろう。
「もっと楽しみなよ。大丈夫、あんたなら卒なくやれてる。そんなことより、その調子じゃ最後の最後で転けるぞ?」
そう言い放つやいなや、容赦なく運転中の腕が抓られた。
「どうしてそう不吉なことばっかり出てくるかなー?もうご飯抜きね。寒空の下、朝まノーカロリーで過ごしなさい!」
それは流石にマズい。二つの理由で横は向けないが、おそらく本気の目をしていることだろう。
「悪かったって。ほら、高速乗る前に好きなところ連れてってあげるから」
「最初からそのくらい要求するつもりでした!まあいいや。んー、手始めに海!!」
「これから山に向かうのに海ですか。」
しかも寒い。
「海だけじゃないよ?凡そ思いつく限りのデートコース全部回るから!あ、しおり作ってきたんだった!ええっと……」
そこまでやりますか。呆気に取られた僕は、予定時刻からの逆算に、ちょっとばかり頭を使うハメになった。