1と2(後)

「あなたはいい人だから、きっと幸せになれるよ」
耳慣れない二人称のせいか、その意味を理解するのに時間がかかってしまった。手を止めて、彼女に向かって言葉を返す。
「何、忘れさせたいの?今日のこと」
「ううん。それから先のことは興味ない。あなたのことでも、考えたことなかったから」
冷たく言い放つ癖は、僕の前ではただの強がりだった。そもそも強がる必要すらないのだ。彼女の中で境界が曖昧になってしまわぬよう、僕の前でも偽物であり続けてきた。
「寂しいとか、思う?」
「いや、これで、今日で終わりだから。」
お互い意地になってる。何せ初めてのことだ。慎重にもなるだろう。一つでも掛け違えてしまったら……。いいや、最初からすべてが間違っていたのだ。

「今日で、終わり」
穴の縁に立って僕を見下ろしている彼女の顔は、きっと暗くてよく見えないのだろう。しかし、その声は――。
「ねえ、無理だったよ。全部、全部怖いままだった」
聞きたくない。いや、聞く必要がない。僕は作業を止めなかった。いつの間にか、口の中も泥だらけだった。
「バレてもよかった!隠し通せなくなって、責められてもよかった!一日の終わりには、絶対あなたがいる。それだけで」
スコップの先が曲がってしまっている。手首を右に反して突き立てれば、まだ使い物になるようだった。
「あの子だってきっと私たちを」
急がなくては。平らにならす作業にどれだけかかるか、四肢を埋めるにはどれほどの量が必要か。それくらいは事前にシミュレートしておくべきだったのだ。
「どこに行ったっていつかは」
幼い少女の声。一晩中泣き叫んでも、まだ足りない。満たされない。
「方法なんて一つも」
体中痣だらけになって帰ってきた、あの日の声。
「最初から、望みなんて」
あの日以来、彼女は気丈に、聡明に生きてきた。
「結局全部、駄目だった」

姉は僕を愛していた。
ごく幼いころから彼女はそれを事実として認めていたし、僕もそう思った。初めてそのことを告げられた時も、好意や嫌悪といった感情は一切なく、ただそれをそれとして受け容れた。いや、あらかじめ受け容れていたのであろう。姉の感情を、僕は「知っていた」。そしてそれが世界に歓迎されないということも。
自分たちの関係の危うさを知識として認識したのは、姉がクラスメイトから暴行を受けたあの日以来だろう。からかわれて、殴られた。どこにでもある話だが、姉はそれをひた隠しにしていた。まもなく両親に見破られ、関係が露見したあと、姉は変わった。
それから、臆病な姉は現実からの逃避を願い、聡明な姉は現実的に逃避の手段を企てることに専念した。

僕はと言えば、機械的にその手筈を整えていった。
2012年12月21日、人類は滅亡する。
「最後の日、私見てみるよ。私たちだけじゃない、みんなが受け容れられなくなる瞬間を」
嘘でも本当でもない、事実だった。そうとしか思えなかった。
彼女にその光景を見せたいと望んだときに初めて、彼女に対しての感情が生まれた。それは僕にとっての原風景でもあり、使命でもあった。報われるだとか、復讐だとか、そんな人間らしい動機はなかった。理由づけすることすら放棄した僕は、彼女の気持ちに向き合うことさえ怠っていたのだ。
僕たちはまだ幼すぎた。

頭上で嗚咽が聞こえた。彼女に駆け寄り、用意してきた毛布を被せ、背中をなでる。
すべてが意味のないことのように思えて、地面に溜まった酸っぱい臭気とともに、一切を埋めてしまおうと、目に涙を浮かべる彼女を抱きかかえ、車に乗せた。
何かが終わって、誰かが死んだ。

エンジンをかけたところで、強い雨が降ってきた。
僕が手を下すまでもなく世界は進み、彼女には明日のことを考えさせられた。
確かに、人類は滅亡したのだ。